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王様手帳
月刊 王様手帳 No.285

昭和62年6月1日発行

<王様特捜班報告>
「昭和12年、幻の第一期パチンコ黄金時代を探る」 より転記

発行所 有限会社アド・サークル(現:株式会社アド・サークル)

定価 100円

昭和12年、幻の第一期パチンコ黄金時代を探る!!


 終戦後、見渡すかぎりの焼野原にポツポツとバラックが立ち始め、 ようやく街に活気が戻って来た頃、 復興期のバイタリティを象徴するかのようにパチンコは空前の黄金時代を迎える。 しかし、戦争によって中断されはしたものの、 戦前にもそれに劣らぬパチンコの黄金時代があったということは、 意外に知られていない。王様特捜班は、この"幻の黄金時代"を探るべく、 長野県は上田へ向かったのである―。



特捜班、小山氏に会う

 戦前期のパチンコ史は、 未だ謎に包まれているといっても過言ではないだろう。 事実、当時の様子を明らかにする資料・記録等はほとんど残されていない。 それだけに戦前のパチンコ草創期に関わった生き証人が長野の地に健在である、 という情報を得たわが特捜班が色めき立ったのは、いうまでもない。 その生き証人とは、長野県・上田市にお住まいの小山仲治さんである。 取材の申し出に快く応じていただいた小山さんは、 今年で90歳になられるとのことだが、 そのかくしゃくたる様子といい、 澱みない語り口といい、明治生まれの気骨を感じさせる方である。 とにかく、本誌記者に会うなり 「あなたは、歳田式というのは御存知ですかな? 」と切り出してきたのには驚かされた。 歳田式といえば、大正13年頃、金沢の歳田精一氏が開発した幻の元祖パチンコ機である。 「長野で最初のパチンコ店に入ったのは、この歳田式ですよ」と、 長野のパチンコ事始から話は始まった。

右写真 小山仲治さん(隣の2人は曾孫さん)

写真 小山仲治さん(隣の2人は曾孫さん)


昭和9年、長野にパチンコ店現る

 小山氏によれば、長野県に最初のパチンコ店が出来たのは、昭和9年の事。
 「長野の吉田という所にね、テキヤの親分がいて、 これがね頭がいいんだ―悪いほうへ使っちゃうんだけど(笑)。 この人、警察署長のところへ行って、いつも御苦労さまです。 これは少しばかりのもんですが、寄附をさせて下さいって申し出て、 『つきましては、ちょっとお願いがありまして… 最近、あちこちでパチンコってもんが出来てきたけど、 長野では真先にワシがやろうと思っているんですが』って言ってね、 そしたら署長が、『ウーン、そうか、そんならマァ、やってみろ』って許可がおりて、 吉田のお宮さんのそばで10台かそこいらで店を始めたんだ。 歳田式の台でね、これが長野で最初のパチンコだね。」
 あっさりと許可がおりてしまうあたりにのどかな時代の雰囲気が伝わってくる。 草創期ならではのエピソードである。  小山さんの話が本題に入る前に、ここで少し、戦前のパチンコ史に触れておこう。
パチンコは、いつの頃からやられるようになったか? これは大正末期といわれている。先の歳田式が生まれた頃である。 しかし、この頃のパチンコは、露店やデパートの屋上で子供相手のゲームとしてやられていた。 それが、現在のようにパチンコ店として大人相手にやられるようになったのは昭和に入ってからである。 昭和5年、名古屋の平野はまさんという人が、 パチンコを遊技場として営業許可してほしい、と愛知県警に申請して、 許可されたのが最初といわれている。 その後、各地にパチンコ店が続々と現れ、昭和10年前後にそのピークを迎える。 これが幻の第一期パチンコ黄金時代である。 その頃の高知でのフィーバーぶりを、昭和11年6月22日付けの『大阪朝日新聞』が次のように報じている。
 『この春以来(高知)市内約三十五軒のパチンコ屋が開業、 午前七時ころの店開きも、もどかしそうに押しよせて、どこをのぞいても超満員。 店じまいの時間がきて、追いかえされるというマニアもある。 盛り場で、20台のパチンコ機が稼ぎ出す一日のメタル売上はザット百円。 販売人、機械修繕係を5、6名使って、純益は少ない時で30円から多い時で50円というから、 パチンコ屋さんの鼻息の荒いのも道理である。 このパチンコ機は、1台9円から14円、15円で大阪、東京方面から仕入れて来るもの、 パチンコ屋のオッサンは朗らかに語る。 僅か5銭で40個のバットをせしめた方があります。』

(旧かなは、新かなに改めた。―『パチンコ面白雑学』加藤希美雄、より引用。)



パチンコってのは、いいもんだ!!

 さて、ここで話を元に戻そう。 小山さんが、上田市で昭和12年に自ら"日の出パチンコ"を開店するまでのいきさつである。 「私はその頃、木炭の商売をしていて、営業で長野市へ出てたんです。 長野市でも、2〜3軒のパチンコ店が出来た頃でね。 ある日、仲間がね、パチンコっていう面白いもんが出来たから行かねぇかって誘うんですよ。 『こりゃ、おもしれぇもんだ、めったやってれば、随分増えて、金もだいぶ儲かるんだ』なんて言うもんだから、 そりゃ、出たらの話だろ、オレはそんな所へは行かねぇよってね(笑)。 でも、あんまり何回も誘いにくるもんだから、 それじゃ義理で行ってみるかってことになってね。 行ってみたら、客がたくさん入ってて、随分どうも好きな衆がいるもんだなァって思いましたよ。それで、自分もやってみたら 『見ろ、ほらみんなへぇっちまったじゃねえか』って調子でね。 こりゃ、パチンコっていうのは、いいもんだって思いましたね。 それにこの商売は前金だから、他の商売みたいに売ったあとで、 集金する苦労がなくていいやっていうんで、こっちの商売に入ったんですよ。
 パチンコ店を開くには、警察の許可が必要である。 許可は、管轄所の署長の判断に任されているので、いつでもうまくいくとは限らない。
 「……その時分はね、警察の署長の考えでもって、上田には三軒しか店を作らせなかったんです。 いくら願書もっていったって三軒までしかやらせない。 でも、署長が代われば、許可もおりるだろうから、 先に行っていい場所を見つけておこうというので、上田に来たんですよ。 それでね、やっぱり署長が代わったら、許可がおりて、店がどんどんできちゃったんだよね(笑)。 ていうのはね、新しい署長は手下を使って、自分でパチンコやってるわけだ(笑)」



日の出パチンコ店内風景

昭和12年、日の出パチンコ開店!!

 小山さんは、店を開くといっても、 限られた資金でのやり繰り故、自らが古い商店を改造して、 床を張り直し、12台のパチンコ機を据えつけ"日の出パチンコ"を作り上げたという。 開店した日の出パチンコの営業時間は、 警察の許可により朝7時から夜12時までと定められていた。 小山さんは、開店当時の状況をこう語る。
 「とにかくお客さんがどんどん来て凄かったですよ。 朝はもう7時にね、寝てると表でお客さんがドンドン叩いて、起きろ、起きろって(笑)。 店をあけても12台しかパチンコがないでしょう。すぐにいっぱいになっちゃって、 待ってるもんは台があけば、『今度はオレだぞ!!今度はオレだぞ!! 』なんてけんかごしで順番を争ってるんだから。 夜は、12時になっても帰らねぇんだ。 それで警察の人が来て『小山さん、小山さん、今何時だと思いますか? 』って。 『エート、時計見なきゃ、アレ!?12時過ぎちゃった。すいません。すぐやめますから』って謝ってね。 でもいくら言ってもお客が帰ってくれないんだから(笑)。」
 こんなエピソードも―

 「春頃だとね、畑に種まきに行く途中で、 鍬かついでて、そのまんまやっちゃう人もいてね。 そうすると友達が来て、またつっかかっちゃって、とうとう種まきに行けなくなって、 家で怒られちゃったなんて笑い話みたいな事もあったね(笑)。」



一発勝負のメタル式パチンコ

 さて、ここで当時のお店の様子を紹介しよう。 まず入口(表紙のウラの写真参照)をガラガラと開け、 のれんをぐるぐると左右、正面の壁にズラリと12台のパチンコ台が並び、 正面右端には、ちょうど映画の切符売り場の様な両替所がある。 中央には2畳ほどのゴザを引いた縁台があり、 その上に置かれた火鉢では、ヤカンのお湯が沸いているという按配である。 床には、小山さん発案の床暖房が埋めこまれ、 お客さんを足元から暖めるしくみになっている。
 お客さんは、まず両替に行って、お金をメタルに替えるわけである。 メタル一枚一銭(十銭まとめて買うと一枚サービス)。 当時の様々なものの値段から見て(表参照) 一銭は、現在の10円といったところだろうか。 メタル一枚(=玉一発)10円は、安いか、高いか? 難しいところだが、とにかく現在のように玉を買うのではなく、 メタルを買うのである。 替えたメタルをパチンコ台に入れると、一枚で一個の玉が出てくる。 これを弾くわけだが、現在のような連発ではないから、まさに一球入魂の勝負となる。 したがって、その道の達人は、 玉が何度も発射点に戻ってくるのをいとわず、 徐々にバネを強く弾いていき、 あたりをつけたところで勝負に出るわけである。 こうして運よく入賞して獲得できるのは、 メタル二枚。 時代を感じさせる悠長さではあるが、味わいの深さは格別であろう。 メタルがたまれば、当然景品に替えるのだが、 これはタバコ・キャラメル・チョコレートの三種類でやはり一番出たのはタバコであったという。

メタル式パチンコ機

お茶の時間ですよ〜
品名年代価格
タバコ昭和11年8銭
キャラメル昭和12年5銭
アイスクリーム昭和10年30銭
コーヒー昭和12年15銭
ラーメン昭和15年16銭
豆腐昭和13年5銭
品名年代価格
鉛筆昭和14年5銭
週刊誌昭和12年15銭
せっけん昭和15年10銭
草履昭和11年6銭
マッチ昭和13年12銭
おみくじ昭和12年10銭
『値段の明治・大正・昭和風俗史』週刊朝日編、より引用

 当時の日の出パチンコのサービスでユニークなのが《お茶の時間》。 毎日、10時と3時には「皆さん、お茶の時間ですよ〜」の声を合図に、 お茶と漬けものが出される。 中央に置かれた縁台に、ゾロゾロと集まってきたお客さん達は、 火鉢を囲んでお茶をすすり、漬けものをつついて一服するわけである。 今からは想像のつかないのどかさだが、こんなパチンコの時代が確かにあったのである。
 だが、こうしたのどかな光景も、日増しに強まる戦時統制の波に呑まれていくことになる。



その後の"日の出パチンコ"は?

さて、戦争の激化によって休業を余儀なくされた日の出パチンコは、その後どうなったのか?
「……終戦になってね、いよいよまたやってもいいことになって、警察に許可を取りに行ってね。 そしたら『許可があるものはいい』って。そうか、それじゃおれは、許可をとってるからすぐに始めるって ―戦時中に廃業届けしないで、休業届だったからすぐ許可がおりたんだね― 一番に店を開いたら、もうみんなお客さんがどんどん来ちゃって、まず、面白かったですよ。」
そして、現在ではパチンコパーラー《ニュー日の出》は、 上田市を中心に6店を数えるまでになっている。 小山さんが昭和12年に創業して以来、 実に50年―先頃開店した《ニュー日の出・川中島店》には、お孫さんが勤めていらっしゃるというから、 ついに三代目の時代の時代へと入ったわけである。
日の出パチンコの歴史を追って今回の特集も、 ここで打ち止めとしたい。 しかし、パチンコの歴史は、ファンの遊び心が滅びないうちは、まだまだ続くのである―。

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